昭和54年3月21日  朝の御理解


御理解第五十節  朝の御理解
「兎角信心は地を肥やせ常平生からの信心が肝要じゃ地が肥えておれば肥をせんでも一人でものが出来るやうなものぞ」


 今日は宮崎の網さんところの告別式が一時からございます。ここの支部長さん方が、皆そろって御祈念が終わったあとすぐあちらへ車二台で発たせて頂いた。もうあちらの御信者さん方が皆集まって一生懸命御用が出来ておられる、という事ですが昨日久留米の佐田さんの奥さんから電話がかかってきた。久留米の稲垣さんの妹にあたる方が中村さんという方が熱心にやらせて頂いておる。それで昨日久留米の佐田さんところに中村さんから電話がかかって来た。無論娘さんが信心もないけれどももう大変に嘆かれる。そりゃそうでしょうねぇ。二、三日の病気であっと云う間の亡くなられたんですから。合楽の親先生はお母さんを助けきんなだらんやった、と云うて嘆かれるそうです。本当にそう云えばその通りですけれどもね。丁度あちらの霊祭が一週間前にございましたが、その翌日をあちらの十三日会を先生方がここからそれこそ士農工商が行っとりましたから、ま、大変な盛大な十三日会があちらで出来た。
 その十三日会の朝にその中村さんがお夢を頂かれた。お夢の中でも支部長さんの奥さんがお国替え、ということを頂いた。わからんけれども支部長さんちどこの奥さんやろか。そこにはお棺が置いてある。で、そのお棺のフタをこうやって取らせて頂いたら中に久留米の支部長さんの奥さんが入っとんなさった、と云うわけなんです。今まで申し上げ切らなかったばってん、もうこういう事になりましたらやっぱり久留米の      宮崎の支部長さんの奥さんの事だったんだろう。けどもお棺の中に云うならば久留米の支部長の奥さん、佐田恵美子さんが入っておられた、と云うのはどういう事だったでしょうか、というお電話があった。
 それですぐ佐田さんこちら電話をかけて見えて皆さんすぐおわかりになると思うですよね。何故佐田三恵子さんが使われなさったか、御理解です。支部長さんの奥さんが亡くなると云うことは無論宮崎の支部長さんの奥さんが亡くなる、という事でしょう。佐田恵美子さんという事は佐田という事は合楽風と云うか合楽流という事なんですね。云うなら佐の田と恵美子と云うのは恵まれる美しい子、と佐田さんの奥さんの名はそう書きます。私がお国替えと同時に何回この言葉を使うかわかりませんけれども素晴らしいお国替え、素晴らしいお国替えという事を申します。
 昨日秋永先生があちらへ、まあ支部長としてまた信徒会長として弔辞を読まなならん。それで「西岡先生、弔辞を書いとってくれ。」とこう云う。それで先生もうそれこそ頭をひねってもう昨日の朝のご理解をそのまま書こうか、と思ったけども、ま原稿だけ書いて佐田先生と竹内先生とが三人でまた練り直してそしておそらくそれを持っていったのでございましょう。それを秋永先生が読む事になるわけなんですね。その中にです、素晴らしきお国替え、という事を書いとるがその後先の事がわかってその私が素晴らしきお国替えと云うのなら皆なにもわかりがいいけれども、只弔辞の中に素晴らしきお国替え、と云うたらそれこそ信心のわからない子供達やらはどうして家のお母さんが死んだつが素晴らしい事か、と云うて云うやろうからその素晴らしきはどうか書かなければいけないね、と云うたんですけれどもその中村さんが頂かれたお夢といい佐田さんが昨日ここへ電話をかけて来られた事といいです、素晴らしきお国替えでしょうがね。
 もう昨日の御理解頂きよると早よ灰のごたるというような笑い話が出る位であった、と云うて灰のうとは思わんけれども、けれどもどうせは云うならば向こう岸にそれこそ今日はお彼岸の中日でしょう。ですからそのお彼岸の彼方へ、ね。
 私共の願いはどうぞあちらへ行ってよい霊の生活が出来るように、ま、仏教的に云うなら極楽にでも行けれるような行き方をこの世でさせて頂こう、とね。それをならこの世では、ま、例えば難儀であっても苦労であってもそこを信心で頂いていけばね、云うなら今日のご理解で云うと地が肥える事になる、ね。心が豊かになること。その地が肥えるという事がです一人でに云うならば極楽行が出来る程々のおかげが頂けると、ま、仏教では説くわけですね。この世では仕方がない。そんな諦観ですね。いわゆる諦らめ的なものが仏教には非常に強い。
 今日私は御神前に出らせて頂いて一番始めに頂いたのは『大黒様が左に持っておられた打出の小槌をひょっとこちらへ持ち替えたりこちらへ持ち替えたりなさるところ』を頂いたです。
 合楽の信心が和道十全の道と神様は云うて下さる。云うならば今までの云うなら宗教は殆どが片手落ち。云うならキリスト教では左の手を魔の手といい、仏教では不浄穢れ。云うなら忌み穢れた手と左を云うておったのを教祖の神様の御信心によるとです、云うならば前代未聞と云われる教祖の御信心にはです、そういう忌み穢れた、とか魔の手と云われておるそこに信心がありそこにそういうことを云うことが天地に対する御無礼になる、と説かれたんです。この世の中には右もなければ左もない。みんながおかげなんだ。生きる事がおかげならまた死ぬる事もおかげね。云うならば天と地が一つになって喜びあえれる世界、それを合楽という、ね。
  今日は良い日の悪い日のと例えば云うただけでも云うなら右手だけの信心から云うとそういう計算になるのです。確かに計算ですね。けれども教祖様の場合は、ね、「日のお照れしなさる日によい悪いはないと思え」と、「日柄方位は観るにおよばん」と、例えば云うふうにお説きになった。なるほど人間は因縁ね。罪穢れも確かにありましょう。けれどもね、わかるところをわからせてもろうて過去の事を改めてそして詫びれば許してやりたいのが親心だという説き方をなさった。またそれが事実なんです。だからそういう天地に立っての信心させて頂くとです、一切がおかげという事になりそこには因縁もなからなければ罪の、いやあったにしてもそれは詫びれば許してやりたい、というそれこそ霜に煮え湯をかけた如くかき消える程の内容をもっておる。金光教の信心をなら本当は右と左の両手を使われる程のものなんだ。その云うならば左の手の云うならば不浄とか穢れとか魔の手とかと云うそれを有り難く頂くというところにお道の信心があるね。
 いよいよ一人でに物が出来る。云うならば合楽で云われる土の信心。これはもう右、左を一つにしたような御信心なんです。一切を合掌して受けると云うのですから、これは罪の現れだろう、因縁の現れだろう、とは云わんのです。神愛として頂くのですね。私は心が肥える、と云うのはね、そういう頂き方、頂き止め方をもって心が肥えるという事になるのだと思いますね。
 今は例えば肥料でも化学肥料が殆どになりましたけどもね、肥料というものは昔からもう云うなら汚いものとされておりましたね。云うなら肥ですね。その云うならば大地に持って行く。大地が黙って受けるだけではなくて、大地自体の云うならば肥豊かになっていう働きをしていく。そこに種がおかれる、まかれる。そこからよいものがうまれてくる、という云わば計算なんですね。金光教的な計算でなからなければ、人間のもうこの世では仕方がないと諦めておったところです。お前にはこういうもう原罪、もう消しようのない程の罪があるからお前達が苦労するのは仕方がない。それこそキリスト教の歴史をひもとけば皆さんがわかられるようにそれこそ血で血を洗うような生ぐさい、云うなら斗いに終わっておるんですね。
 左手がよいの、右手がよいの、もう左手は叩きつぶさなきゃいけんという教えですからね。それが右と左が仲良うしてそこから生みなされてくる信心。成程宗教以前の宗教だ、前代未聞の宗教だ、という事になる。それをいよいよ明らかにしておるのが合楽理念なんですね。云うなら合楽の信心はもどこまでも地を肥やす。それがもう彼岸の彼方という彼方に行ってからのおかげではなくてこの世での極楽、この世での喜び、安心の生活が出来るような、もう日々がありがとうして楽しうして愉快にまでなっていくという行き方を、ね。また行き調子を合わせていく事を教えるのが合楽理念です。
 そりゃ痛い事もあれば痒い事もある。けどその痛い事も痒い事もまた有り難い、と受けていくのですからそこに一つの音符、とでも申しましょうかね、楽符のようなものの様な働きをするのです。高いがあり低いがありそこから何とも云えない一つのメロディーが流れてくるような一日。今日も結構な修行させて頂きました。今日も広大なおかげ頂きましたというような事になってくるわけですね。云うならば合楽的助かり、ね。ま、金光的助かりと云ってもよいけれども云うならその中でもまた合楽的助かり、というのはその右左を完全頂きこなして行こうとする行き方。大黒様が左に持ったのを右に持った、右に持ったのをまた左にこう、ね、自由自在に頂きこなしていけれる。
 網さんのお国替えが素晴らしきお国替え、そういうリズムに乗った、云うならばお国替え。どにも不自然さもないね。故に云うならば素晴らしきお国替え。そこ辺の道理がわかりわかると成程肉親を亡くする、特に親を亡くする事ですら悲しい事にまちがいないけれども、そういうおかげのリズムに乗っての母がお国替えのおかげを頂いたんだという事がわかればですね。悲しいけれどもお礼を云わずにおれないという事になるのじゃないでしょうかね。この世は浮き世。この世は云うならば苦の世、苦の世界と云うふうに説かれたお釈迦様の云うなら表現からそれとは反対に、ね。この世を極楽の世界。そこには合楽の信心、合楽しあえれる世界。神様の氏子が仲良うしていく世界。そこから生みなされてくるところのおかげで云うならば諦観的なものではないね。この世あの世を通して有り難い。またこの世で有り難いという境地を開いておかずして、この世で云うならば人間の幸せの条件の全てが足ろう程のおかげを頂いておらなければ本当の極楽ではないね。だからそれはそのままあの世へつながるんだと合楽では説くわけですね。
 そのためには例えば云うならば、とかく信心は地を肥やせと、云うならとかく信心は心を豊かにしていく稽古をしていけ。それには土の信心に、ま、極まるわけですけれども、ね。どうして降るだろうか、どうして照るだろうか、でなくて降る事も照る事も有り難い。そういう心が云うならば肥やしになる。根を肥やす事の働きになってくるという事でございます。
 彼岸のお中日だけが有り難いのではない。いつも彼岸は中日である。云うならば教祖はその事を今中とおっしゃっておられる。
 どんなにおかげを頂いておっても、どんなに例えば難儀と思われる中にあっても、ね、今中、増長がない。思い上がることが出来ない。
 私は今日の五十節と云うのですからね、百節を全うしたという事になるならば真中五十節、いつも五十の場にある。それを仏教的にはね。あの五重の塔というのがありましょう。あれにはもうそれこそ有り難いものだけをあそこに納めるもんだそうですね。有り難いお経文を収めるのだそうです。その降っても照ってもいうなら有り難いというものをです、私共の心の中に頂きとめること。それがお道の信心だ、と。合楽理念の行者としての信心の稽古と云うのはそういう稽古をいよいよさせて頂く。いつも云うならば彼岸の中日にあるような心を、の状態を頂き続けたいものですね。それにはいよいよもって心豊かにする。いよいよ心が肥えていく精進に焦りあってはならんという事でございますね。
                                                      どうぞ 昨日ずうっと続けて大学受験のお願いがしてあったののお礼のお届けが丁度七軒続きました。もう本当にそれこそ何年も浪人しておった方達が出来た。電話でお礼のお届けがある。お礼に出てくるという。もう本当に喜びいっぱいなんですけれどもそういう思いもかけないおかげ、というか兄弟二人東大を受けて二人共合格したというのがありました。何かもう本当に電話の向こうで大変その喜びが感じられるようなでしたがそういう事だけが有り難い、中にはならとうとう落ちたという人もありましょうけれどもね。合格、落第、もうどっちでも云うならば神様の御都合として有り難く頂けれる信心、そういう信心がいよいよ心を肥やしていく。心を肥やしていく肥料を頂いておってです、それを神様も親先生も助けきらっしゃれんかった、というような頂き方ではね、肥やしにならない事がわかりますよね。また心が荒れてしまう。
                                                      どうぞ